オトナ帝国批判について

ARTIFACT@ハテナ系昨日の風はどんなのだっけ?


うーむ……言いたいことはわかりますが、「クレヨンしんちゃん」はいつも「家族」を最後のおとしどころにしているわけですよね。
これは「オトナ帝国の逆襲」以外の映画でも。最近では「ヤキニクロード」とかで顕著でしたが。
それは、エンターテインメントとしてはわりとフツーのことのような気が……。


むろん、しんちゃん一家のような「家族」が今の時代、盤石の安定感を保っているとは私も思いませんが、それは「オトナ帝国」に要求すべきことなんですかね?


それともうひとつ、ノスタルジー批判が若い人からよく見受けられるように思いますが、これは当然のことだと思います。
私もかねがね先行世代(とくに五十代以上)のノスタルジーを扱った作品にはムカついてました。


しかし、「オトナ帝国」の製作者やそれを絶大に支持している人たちは、そのすぐ上の世代(全共闘世代)から常にノスタルジックであることを強烈に批判され続けてきて、その反動が出ているのではないかという気もします。
まあ、直接確かめたわけではないからわかりませんけど。


私もどこかで「●●が出ていないからこの作品はダメだ」という批判をしているかもしれないけど、
しかしどんなに暗部を書き出そうとしてもエンタテインメントには限界があることはご理解いただきたい。
「●●が出ているからこの作品は素晴らしい」ということはできても、
「●●が出ていないからダメだ」とはなかなか言えないんじゃないか。


むしろ、おためごかしに出される方が何倍も腹が立つと思うんだけどなあ。


さらにもうひとつ。ノスタルジーをめぐっては、確かに「健全な世代対立」があって当然だと思うんですね。
でもそれは、現状と、さらにネット上ではなかなかむずかしいのではないかという気もします。


まず、現状、かつての高度成長的未来感も、サヨク的というか全共闘世代的な進歩感も、見直されている状況でしょう。
60年代くらいまでは、少なくとも「未来」があって、それへの否定的な態度があって、健全に対立していたのではないかと。
まあ、それが「オトナ帝国」の悪人側の主張でもあったわけだけど(たぶん)。


でも、学生運動もしぼんじゃって、公害問題とかが起こって無邪気に未来を信じられなくなり、さらにバブルは崩壊して近い未来の個人的幸せもイメージできなくなっている。
その現状で「ノスタルジーとは何か」って話にならないと、と個人的には思っていますね。
それはだれの心にもあるものだから。


けっきょく現状がダメだなと思ったときに、過去に戻ろうとするか、何か新しい未来像を構築するかはそのときどきの状況とか提唱者の資質や好みによるだけなのでは、と思うので。


それと「ネット上」の話になるんだけど、ノスタルジーの問題って年齢で大きく変わりますからね。「これが答えだ」って本質的なものがポンと出るわけではない。懐かしいものはやっぱり懐かしいからね。
ネットでは年齢も性別もわからないし、論者が何歳かわからん状態では、議論を交わすのはなかなかむずかしいのではないかと。
あるいは、「何歳かわからない状況の中で」のノスタルジーに関する言葉を編み出していかないといけない。
たとえば、若い世代はドラゴンボールとか懐かしいかもしれないけど、私から見るとつい最近のことでぜんぜん懐かしくなかったりするしね。

で、今でこそそういう「懐かしいモノを愛でる」雰囲気みたいなのは当然のようにあると思えますが、それには三つの流れがあって、ひとつは荒俣宏みたいにだれに何を言われようと調べたいことを調べる、残したいものを残すという趣味人的な流れと、
あと民俗学とか民芸に対する研究とかわりと学際的なそういうのと、
もうひとつは60年代に学生運動が挫折して、一般庶民のことをもっとわからんといかんという風潮から出てきた柳田国男とか民俗学の再評価みたいな部分(まあ、左翼と民俗学の関わりはもしかしたら戦前からあるかもしらんけど)。


その3つの流れが混交して現在のいろいろがあるわけで、ノスタルジーというのは「未来感」の問題でもあると思うんだけど、ここ20年くらいでそうとう変化してますからね。
だから、何も「オトナ帝国」はとつぜん出てきたわけではなくて、そういう過去の積み重ねの上に必然性を持って出てきていて、なおかつ面白いからいいんじゃないかと。


「家族」(ニューファミリー)を最終的なよりどころにする点のテーマ的な弱さも、支持者からすでに指摘されてましたしね。