情報は神その1

むかし、チェーンのラーメン屋に、なんかバブリーな小冊子が置いてありまして、そこにテレビでたまに見かける大学教授が食にまつわるエッセイを書いていた。
なかなかエッセイの文章もうまい人だった。
でも「惜しい」と思ったのは、「調べないで書いてるなぁ」というのが、途中で見えてしまうところだった。
調べないで書くなら、それは大学の講義での雑談と変わらないわけで、講義の雑談なら記録に残らないけど、活字になって残るとボロが出てしまう。


調べてもその情報を載せて面白くなりそうもなかったら知らないフリでもすればいいのだし、あるいは「ここまでは知っている、ここからは知らない」ということを明確にするのも、その人の頭の良さの基準にはなるだろう。


情報に振り回される昨今ではある。たとえば20年くらい前と、どのくらい流通している情報量に関して違いがあるかどうか、定量的にはわからないけれど、皮膚感覚としては「整理しなければならない情報量」というのはとんでもなく増えた。


で、自分はそういう「情報」に対する感性があまりににぶい人は、信用できない。
たいてい、文章を書こうと思う人は、情報を自由自在に操れるにしろ、どこかで見切って自分のできる範囲でやっていくにしろ、「情報」そのものに関して敏感である。
「情報なんかいらない」とブチ上げた人がいたとしても、それは神に対する無神論者と同じで(無神論者は「神」に関して真剣に考えたことがあるという前提で)、一度は情報について真剣に考えた人のはずである。


いちばん困るのが、「情報を知らんで、何が悪い」と開き直る……いや違うな。「開き直る」というのは何らかのコンプレックスがあるわけだから。
いちばん困るのは、「情報について何も考えずに、自分から情報を発信する人」です自分にとっては。


上記のようなエッセイの話に戻るが、まあ私も実はあんまり昔のことはわからないんですけどね、でも優れた随筆というのは、必ずそれに裏打ちされた「教養」があったはずである。
文学史に載っているような随筆であれば、その背後にはかなり強固な教養大系が存在していたはずだ。


で、70年代半ばあたりから、「自分の思ったことを思ったとおりに書くだけだ」というかなり自由な雰囲気のエッセイが多く見られるようになった。
「昭和軽薄体」って言われた人たちなんかがそう。
その手のエッセイというのは、自分の感性を第一に信じているかのように見えるところに特徴がある。みんな大好きナンシー関なんかもその系譜である(いちおう注意して書いておくが、ナンシー関が「私は昭和軽薄体を参考にしています」と言ったことはないはず。ただ系譜としてはそうなる、ということ)。
しかし、その背後にある「教養」は、当然読者と了解可能なものでなくてはならない。「教養」というのは情報をある種の思想に基づいて体系化したものと言える。
「感性」も重要だけれど、その選択に関してはやはり何らかの取捨選択の基準としての教養(情報)が存在していることはあきらかだ。


ここをカン違いすると、本当にただのオヤジの繰り言になってしまう。
しかも、昔のように「教養」の大系がキッチリしているならともかく、今のようになんだかわからない状況ならなおさらである。