「同調圧力」問題

ミクシィ日記でちょこっと話題になっていて、ヨソ様の軒先で長文のレスを付けていいかどうかもわからず、こっちに思ったことを書こうと思った……のだが、うまくまとまらないね。


というのは、私自身の人生において何が「同調圧力」で、何がそうでないのかがよくわからなかったからかもしれない。
それともうひとつは、世代的なものがあるのだ。


まず「何が同調圧力かわからない」ということについて。
正確に言うと、自分語りになるけど私の場合は積極的に他人と合わせなければならなくなったのは大学に入ってからだった。
(私の高校時代は謎に包まれている(笑)。←自分で言ってるよ)


で、大学というのは積極的に人になじもうとしないかぎり、知り合いの一人もできないところである(と感じた)。
クラスはあってないようなものだし(100人くらいいたかな? もうちょっと少ないか)、
サークルにもゼミにも入らないとすると、4年間だれとも口をきかないでいようと思っても可能なところだ。
そこが、より閉鎖的な中学校、高校とはまた違うところ。


そのうえ、「人に対する合わせ方」を私はまったく知らなかったから、「どうやったら合わせられるか」だけをほぼ考えていたら4年間がすぐ経過してしまった。


まあ就職したら当然、(いわゆる同調圧力というのは)もっとひどかったわけだけどね。


ただ、どうしても「従うべきルール」と「何となくできあがった、従わなくてもいいルール」の区別というのが、自分にはいまだにつかない。
逆に言うと、自分の心理としては本当はルールなんてひとつも従いたくないんだよね。


自分の基準が限りなくゼロに近いから、どうしても他人が決めたルールに従わざるを得なくなる。
その従属度は、かなりライトなものからヘビーなものまで、グラデーションになってなくて実は自分の中ではぜんぶイヤなんだよね〜。
だから「自分の基準でやっていこう」と思っても、どこまでがアリなのかがぜんぜんわからないんですよ。


それともうひとつ「同調圧力」について考えて感じたのは、特定の集団内で何かに従わない人がいて、その人が「特例」みたいになっているケースがある。
「花の応援団」の青田赤道みたいな。極端に言えば。
「あの人なら仕方ない」みたいなね。
じゃあそれを決定しているのは何かというと、やはり「空気」の問題に回帰してしまう。
「特例」の人はその空気がアリで、「特例」でない人はその空気はナシだと。


話はすっとぶが、その「アリ」の存在であったのが実録任侠映画における菅原文太であり、
「ナシ」の存在であったのが川谷拓三である。
深作欣二が偉大なのは、横紙破りなやくざを描くときでも一方で拓ボン的な「ワリを食ったやつ」に対する視線を忘れなかったことだ。


話を戻すと、ネット上で相手させてもらってる若い衆は同調圧力をより問題視している場合が多いですね。
まあそりゃそうかなと思う。35歳以上でその辺の話題をネット上であまり見かけないのは、自分が生活する範囲でのそういう問題をある程度クリアできる立場を手に入れた、ということなのかもしれないね。


そして、たぶん「モテ、非モテ」とか「恋愛資本主義」というのが若い衆の間で問題になるのは、おそらくそれが最大級の同調圧力だからだろう。
ただし、また横道にそれるが、この間映画「X-MEN ファイナルディシジョン」を観たんですよ。
この映画では、超能力を使えるミュータントを「治療」する薬が開発されたことになっていて、それを注射されると一瞬のうちに普通人になってしまう。
この「ミュータントの特殊能力を病気と判断して治療する」という考え方は、アメリカにおける異分子というか文化的に異質な存在に対して、ある特定の絶対的価値観を設定してはならない、という製作者側の警告が描かれたということだと思うんだが、
この「ミュータントを治療する薬」というのは、メタファーとしてはちょっとどうかと思う面もあって、


「ミュータント」というのがぜったいに交換不可能な「立場」であるからこそ、それが作品世界内では民族問題だったり、ゲイなどのセクシュアリティの問題だったりのたとえになり得たのが、
たとえSF的な設定としても「治療可能」としてしまった場合、
「強制的に治療されたミュータントとは、いったい何なのか?」というむずかしい問題が浮上してしまうんですよ。
(映画ではそこまで踏み込まなかったけど)


もしも「ミュータント」であることが問題ならば、「ミュータント」でなくなったら問題は雲散霧消して解決してしまう、という考え方も出てきてしまう。


非モテ」だとか「恋愛資本主義」といった問題も同じことが言えて、
ぶっちゃけるとある日突然モテたり、彼氏、彼女ができたとしてもそのような問題は問題として継続しうるのか?
というのは、これは難題だと思うんですがどうでしょうか。
似たような文脈ではみうらじゅん伊集院光などの「DT」っていう概念は実は私はすごい疑問だし、
オーケンの「モテなかったばなし」とか「モテないやつへのエール」というのも、実はあまり信用ならんと思ってます。
だってみんなモテてるでしょ。
あ、むしろみうらじゅん的思想を支持するいとうせいこうはマジかもしれないですけどね。


いやいや話を戻しますよ。
同調圧力」に話を広げると、特定のコミュニティの有形無形の圧力というのは、いったんそのルールをこちらが受け入れてしまうとウソのように消えてしまう、っていうケースもあるんだよね。
だからこその、コミニュティ内での暗黙ルールに従う者と従わない者のディスコミニュケーションなんだと思う。
いったん受け入れてしまった側からすると、「なんでこの人はこんなに頑なになっているなんだろう」と思ってしまう。
それは「問題」自体が問題として独立している……というと変な言い方だけど、
たとえば特定の何かに対する「差別」という問題は超歴史的、超空間的に存在するとしても、


特定のコミュニティ内における理不尽なルールというのは、それがコミュニティの存続自体をあやうくするほど破壊的なものでなければ、けっこう続いていってしまうものなんだよね。


たとえば「入部の儀式で必ずうなぎを丸飲みにしなければならない」っていうサークルがあったとして、
それが「虚礼」である以上、同調圧力と言えば言えると思うけど、
1回うなぎを丸飲みしてスムースに人間関係を運ばせるのと、
うなぎ丸飲みを拒否してずっと緊張関係を続けるか、というのは、
問題自体がドウデモなだけに判断がむずかしいと思う。


あっ、長くなっちゃった。分けるか。