理想の「ブログ終焉」とは何か?

インターネット時代の最大のマイナス面のひとつ。
それは「美しい終わりがない」ということである。
実は長期連載マンガというのも「美しい終わり」を放棄するものであった。まあ「終わりがない」ということで言えば紙芝居だとか、それより古い立川文庫とかが「長く続かせる」という意味で、結末を知らなくてもまあまあわかる、といったたぐいのものだったのかもしれない。
しかし、「マンガ」というのは当初は読みきりというかたちでやはり「終わり」はあったのであり、「長編連載マンガ」とはその「終わり」を無限に先送りする装置が、物語の面白さとは別に内蔵されているしろものであった。


たとえば梶原一騎はそのシステムに最後までなじめず、倒れたのだとも言えるし、
小池一夫はそのシステムを本当にシステム化させ、自身の物語に取り込むことによって作家として生き延びているとも言える。


では美しいホームページやブログの終焉とは何か?
結論:そんなものはない。


だってそんなふうにできてないんだもんな。
人気絶頂のまま終わるブログにしろ、すっかり人気が無くなったのにダラダラ続いているブログにしろ、それがあるべきかたちだとは思えない。
映画を思い出してほしい。映画が始まって終わった後、「終わらないでほしい」という欲望が、観客に起きる、ということはたぶんあまりない。
やはり「終わってこその映画」なのだ。
そして、人気のあるものは仕切り直してパート2がつくられる。
「映画をいつまでも観ていたい人がいるから、新機軸として5時間の映画をつくりました」とか、そういう発想はまずない(自分は、ヒキが命の「24」などのドラマは映画とはまた別のもと考えている)。


ただ、ブログにも若い衆が憧れるような「カッコいい上がり」とでもいうようなものはあって、
たとえば作家デビューしたのでやめますとか(本当は、「続けたいんだけど作家業が忙しいのでなかなか更新できない、とか言いつつずっと続けたりするとなんだかカッコいい)。
あるいは数十万ヒットを記録しながら、「自分の心の中で何とかがかんとかになったので、やめることにします。今度は変名で小規模にやっていくつもりです」と書きつつ、次の「小規模で始めたブログ」もたちまちニュースサイトにリンクされて注目の的となる……とか。


おお、こう書いていて自分が立派にさもしい人間に思えてきたよ(笑)。


しかし第三の自分にとって「理想の終わり方」がある。
それは、
「何かデンパ的なことを訴えだし、その記述がどんどん増えて最後にはバーストして終わる」
というものである。
これのポイントは、デンパにいかれちゃう前にいかに「まともな人間であるか」である。
思想はちょっとひねくれた保守、が望ましい。
文学の素養があることも望ましい。
妻子は……まあいない方が消えたときのリアリティがあるか。


それで、3年くらいまともな、みんながうなずけることを描き続け、それから半年くらいだんだん書いている内容がデンパめいてきて、
ある日がクライマックス。
でも宇宙人とか霊界とかまでは書かない方が奥ゆかしいかな。
意地の悪いネット社会では「オカルトにハマる」のも一種の「ベタ」として織り込まれちゃうからね。


なんかよくわからんものに凝り始めるのがいいかも。ググっても出てこないような。「ダイナモックチャレンズ発想法」とか。
本当にあったらすいません。
とにかく「ダイナモックチャレンズ発想法」がいかに素晴らしいかを書きまくり、「基礎からのダイナモックチャレンズ発想法」というエントリを30くらい書き、
後はそれに従った思考法で謎の論理展開のエッセイを50くらい書く。
たとえば「石原都知事はマグロの赤身を食べれば、もっとよくなる」とか変な褒め殺し。


そして……ある日、ネット上から消える。
完全に。


これってカッコよくない?(よくねェよ)


それと、書いている途中で思ったがこれって「筋肉少女帯」の「パブロフの犬」っていう歌とまんま同じような感じだな。


でもあの「パブロフの犬」っていう歌詞、本当にイイんだよな。
最近、「自分が啓蒙されようとして、(しがらみとか関係なく)自己の内面を見つめるだけでドツボにハマっていく人」に対してすごく同情的なんですよ私は。


え? ソエジマとか何とかいう月がアポロに行ってないとか言う人?


あんな弟子たちに囲まれて、幸福そうな知的生活を送っている人にかけてやる言葉はひとつだけだ。


「いいところだけ、あやかりたい!」


あとアヤカが好きだな。
1000兆円くらい儲けたら、アヤカと里田を嫁にもらおう。