オタクはどうして鳥坂センパイに憧れるのか?

http://d.hatena.ne.jp/toronei/20070117/S


リンク先のリンク先では「オタク間」、「サークル間」の「先輩後輩関係」、「上下関係」の中での「鳥坂センパイ」という論点が少なくないようだけど、
私はむしろ「うる星」におけるアニメの「メガネ」と同列のように受け取られていた部分もあったと思いますよ。
「メガネ」は、だれに対してもセンパイでもないし人間関係において何の権威も持ってないけど、パーマとかチビとかでの中ではリーダー格でしょ。それに教養もあるみたいだし。
鳥坂センパイ」を「空気の読めない人」の象徴のようにとらえるのはまあ当たっているけれども、先輩後輩ということを抜きにしても、ああいう「メチャクチャなことをやって人を引っ張っていく存在」への憧れはまったく絶無になったわけではないと思う。


なお、リンク先のリンク先のリンク先(ややこしい)で見たけど、「古参オタクが新参者にいばりたいがゆえに教養主義に陥っている」というのは、ちょっと違うと思う。
「オタク」そのものが教養主義だから。
実は、オタクにおける「教養主義」の限界をどうするかということは、あまり正面切って議論されなかったことは確かだとは思うけど。
その辺は「萌え」という概念が顕在化する前から、「萌え」的感覚が「ガス抜き」として機能していたりした。


つまり、知識、理論に「萌え」という「感性」を対峙してガス抜きをしていたという印象なんだよね。
逆に言えば「萌えの歴史」みたいなものがあまり語られず、「萌え」が教養として蓄積していきにくいのも、そもそもの「萌え」的感性の役割がオタクにおける知識、理論の絶対性を相対化するものであった、と考えるとわかりやすくなる。


それともうひとつ思うのは、文化系のサークルに参加するというのは、そのサークルがテーマとしていることに最上の価値を置く、という一種のロールプレイ、あるいはゲームでしょ。
でも中にいるんだよたまに、「○○ができるからって、そんなに偉いんですか!!」とか言う人。
いやだからさ、サークルの参加者はそのサークルのテーマである「○○」ができる、知っているということに価値を置くという「ゲーム」をやっているわけだから、そういうふうに言われると困っちゃうんだよね。
野球部に入って「野球ができるからって、何が偉いんですか!!」っていうのと同じでしょ。


文化系サークルの体育会系にない最大の弱点もそこで、きっちり勝敗が決まるわけじゃないから能力者の権威というのがなかなか認められない場合があるんだよね。
そんなさあ、「教養があるからって何が偉いんだ」って言われても困るよ。「教養があって偉い、というルールのサークル」なんだろうから。


要は「教養のあり方」だと思う。
たとえばガンダムでも、リンク先のリンク先のリンク先にあるように、ファーストにだって当時批判はあったし、評価が固まる前のカオスがあったわけだよね。
有名な、岡崎優版のコミカライズでアムロがギレンの演説の映し出されたテレビモニターを拳でぶん殴っちゃうシーンとかさ。
クローバーのヘナチョコな超合金もどきとかさ。


オタクは教養主義ではあっても「神学」ではないから、教養によって「ガンダム」という権威を解体させることもできるはずなんだ。
だから教養主義が悪いとは、自分はぜんぜん思わない。
ただ、そのあり方。


あと文系サークルの人間関係は個別具体的に考えた方がいいんじゃないですかね。一般論を導き出すのはなかなかむずかしいよ。