そういえば、「ゆとり教育」ってなんだろなぁ

補足:「円周率は3で計算」というイメージは「ゆとり教育」の象徴として流布しているが、学習指導要領における記述は正確には「(4) 内容の「B量と測定」の(1)のイ及び「C図形」の(1)のエについては、円周率としては3.14を用いるが、目的に応じて3を用いて処理できるよう配慮するものとする。」(平成10年度施行小学校学習指導要領・小学校5年・算数)であり、「3.14を教えない」というのは誤解あるいは捏造である。


受験の季節である。もう終わったの? まだあるの? よくわからない。
よくバラエティ番組を観ていると、アホなことを言ったアイドルに対し「ゆとり教育の弊害がここにも」といったツッコミがなされる。私の周囲には「ゆとり教育」に好意的な意見がまったくない。


しかし、昔の吉田戦車のマンガに「鯨なんてたいして食いたくないけど、あんまり捕鯨反対、反対言われると食いたくなるよなぁ」みたいなセリフがあったけど、インテリも庶民もそろって「ゆとり教育反対」では天の邪鬼になってみたくもなる。


ということでみんな大好きウィキペディアを見てみた。
それについて、自分が思ったこと、思い出したこと。


・「程度問題」
自分は現役の学生時代から卒業して5、6年くらいまでは、受験システムや詰め込み教育には反対だった。
これはひとえに私の実体験による。
たとえば今はどうか知らないが、中学受験においては方程式で「x」を用いない。まあそうやって解いてもいいんだろうが、学校でも塾でも習わない。「鶴亀算」だの「時計算」だのといった解法で解く。
自分は「鶴亀算」、「時計算」、「流水算」、「旅人算」、「年齢算」といった、それぞれに解法の違う方法をいちいち覚え、いちいちそれで問題を解いた。中学受験のための2年間で、それこそありとあらゆる問題を解いた。


ところが、それは中学に入学してからはいっさい用いない。これからは「方程式」で解いてくださいという。
なんなんだよこれは!? ふざけんなよ。
(一部の学習塾では方程式を教えてしまっているところもあったらしいが。)


勉強というのは段階的に「これが理解できたら次の段階のよりむずかしい問題が解けるようになる」といった達成感が、無味乾燥な中でも唯一の楽しみなのだが、少なくとも当時の中学受験勉強ってそういうのがないんだよね。


もちろん年号をひたすらに覚えまくる「詰め込み教育」もイヤだったけど、
実際の受験時代を過ぎるとだんだん考えが変わるようになってきた。


というのは、まず「受験」というのは、「粘り」、「根性」を見るテストだ、ということが理解されてきた。
「根性」をはかれるなら別にスポーツでもいいから、スポーツ推薦もアリかもしれないですよ。
「根性一般」をペーパーテストだけで見るとすると、詰め込み教育は適しているとは言える。学校側は、少なくともマジメにやる生徒がほしいわけだから、マジメに詰め込み教育する生徒は欲しいとは思いますよ。


でも思うのは、じゃあ「詰め込むなら何でもいいのか」ということだよね。
同じ詰め込むなら役に立った方がいいから。
だから、現状では自分は条件付きで「詰め込み教育」は賛成なんですよ。
ただし「何を詰め込むか」の議論が、少なくとも一般人レベルではほとんどなされていない。
たぶん庶民レベルでは「学校の勉強なんか役に立たない」っていう意識が根底にあるからだろうね。


どうせ詰め込むなら、それは何で、どのレベルならいいのか? っていう検討をエライ人にはもう少ししてほしい。


注意してほしいのは、私は机上だけの理論でもまったく覚えないよりはマシだとは思っている。
でも、すべては「程度問題」。「鶴亀算」や「旅人算」の概念を理解することは、私は必要だと思う。
しかし、それと「鶴亀算」や「旅人算」を何問も、何十問も、二年以上にわたって解き続けることの意味はなんなんだよということ。
受験にしろ、それ以外のものにしろ、人を選別するシステムというのはどこかで理不尽とか不条理といったものがつきまとう。
これまたむずかしい問題で、「理不尽」とか「不条理」と言ったことをすべて無くしてしまうとよくない、と自分は直観的に思ってはいるんですよ。


でも、それも程度問題なわけだ。体育会系部活の理不尽なシゴキが、死にいたらしめてはいけないように。
つい勉強って「やる/やらない」の二元論になってしまう。あるいは「暗記/思考力」みたいな。「円周率」にまつわる都市伝説的とも言える「円周率は3で覚える」というのも、「やる/やらない」の二者択一でしか勉強をとらえていない人が多い証左だろう。
でもそんな単純なものでもないだろう。


・「まったくの明文化か、理不尽なまま動くシステムか」
まあこれは教育にかぎった話ではないが、「ゆとり教育」反対論の深いところではそのような問題がある。
ともすれば「ゆとり教育」が体罰絶対反対論と勘違いされたり、もっとふわっとしたイメージでは「自由にやれば何でもいいのか」みたいな脊髄反射的反発を抱かれるのも、「理論的に一つひとつのことを解決していくべきなのか、それともところどころにおかしいところはありながらも、とりあえず動いているシステムはそのままにしておきべきなのか」という、戦後ずーっと取り沙汰されている問題が、教育現場でも常にある、ということだろう。


私個人の考えでは、人生において何らかの「理不尽」というのは人間を育てる上で必要だとは思っているのである。
ただし、上記のように、矛盾するようだがその「理不尽」はどこかでコントロールされていかなければならない。
そうでなければ、そういうものは簡単にイジメやしごきに転落する。
(もちろんイジメやしごき肯定論というのもあると思うが、ややこしくなるので書かない。)
それをだれがやるか、どこまでやるか、というのが問題なのだが、
それをあまりにシステム化すると今度は理不尽として機能しない、という矛盾が根本的にある。


ゆとり教育反対論者」が、逆に何を信奉しているかというと自分たちが受けてきた教育である。
日本の教育の歴史としては、そういう漠とした「おれたちの時代はどーのこーの」ということをきちんと洗い出し、いつの時代のどういう文部省の方針にのっとったこれこれだ、と提示しないといけないのだが時間がかかるので、しない。
その「自分たちのときはこうだった」というのをハッキリさせておかないと、まず議論にはならないだろう。


ただ自分は古い人間だと思われるかもしれないが、「何となく決まっていること、それで動いていること」を、すべて機能として洗い出して比較検討してあらためていく、という行為に対して一抹の危惧はある。
人間、あまりに微にいり細をうがってそれをやると、それ自体が仕事になってしまって特定のコミュニティにおいて「何をなすべきか」がわからなくなってしまう、ということがある気がするのだった。


まあ、簡単に言えば、自分は古い人間も新しい人間も、両方嫌いなんですよ。

山田昌弘苅谷剛彦佐藤俊樹社会学者のあるグループは、「学習に励めば必ず報われる」という「大きな物語」が失われ、雇用形態や職位による著しい所得格差が放置されたままとなっている現在の日本において、特に低所得者層の子弟における「学習への動機づけ」が全く機能しなくなっていると指摘する。つまり「勉強してもしなくても行き着く先は同じ」という理解が広まった結果、「学校教育を自主的に放棄することでしか自己の有能感を得ることが出来ない」子供たちが増えているというのである。この指摘が正しいとすれば、いくら授業時間を増やそうが、学習内容を増やそうが、子供たちを学習に向かわせることは出来ないとなる。

上記引用もウィキから。これはぜったいにあるだろうね。
80年代には受験に成功したやつも失敗したやつも、受験戦争に参加しなかったやつもほぼ全員、何とかなったのである。
中卒のやつも東大入ったやつも、「格差のイメージ」というのはそれほどなかった。
「学習に励めば必ず報われる」という「大きな物語」が失われたために、受験勉強という理不尽に耐えなければならない理由がいちじるしく低下した。
逆に考えれば、人間、目的や目標があるからこそ理不尽に耐えられるということでもある。それがなくなったらただの「無意味」でしかない。


えー話がとっちらかりましたが、とにかく私個人としては「ゆとり教育」の賛成論者とも反対論者とも思われたくない、ってのはある。人生に理不尽は必要だが、問題点を洗い出して検討して解決する行為も必要だ。どっちがより重要かは自分にはわからない。
ただ「ゆとり教育」が結果的に愚策の雰囲気が濃厚であるのは否めないが、それを頭ごなしに反対する人たち、それじゃああんたたちのやりたいことは何なのよ、というのは知りたい。
あんがい、それなりに自由を満喫してきたやつだったりするんだよな。おいおい、それがあんたの反対する「ゆとり教育じゃないの」みたいなことも、たまにある。


そんなとこです。