おとなになる呪文

サブカルにとって「大人」とは何か。
これは、実はきちんと交通整理されていない問題である。
「最近はきちんとした大人がいない」って書いてある、先輩格(一面識もない。念のため)の人のブログを読んで、目の前が真っ暗になった。


「えっ、いい年してアニメだのマンガだのゲームだの言っている人が、どの口からそんなことを書くの?」と思ってしまったからだ。


まあ、でも、私こそ大人なんで、ここは交通整理が必要だろう。


たとえば、ミステリマニアというのはかつてはオトナの趣味だったように思う。今は知らんけど。
「浮世のことにあくせくせず、ゆったりかまえて、ドウデモいいことを考える」という「大人の余裕」がカッコよかったのだ。
だから、今現在、サブカル領域のことをいろいろ書いている人で「大人」にこだわるのは、この頃……いつ頃だ? 戦前とか、戦後、1950年代くらいの作家の「大人性」に憧れている人が多いのだと思う。


ところが、広義のサブカル領域においてはこれとはまったく矛盾する考えもあって、


「万年青年」っていう言葉がかつてあった。
「いい年して、理想主義的で、青い考えを持って行動する」というほどの意味である。


あまりいい意味ではないんだけど、端的に言ってこの「万年青年であること」を目指す思想が、サブカルチャーはてなキーワードに沿って言えば「ポピュラーカルチャー」ということになるのかな?)に入り込んできた。
それが、たぶん、60年代頃。
「若い」ということそれ自体が価値がある、と思われた時代になってきた。
そこには「若さ」の象徴として「若いからこそバカなことをやる」というような感覚が根底にある。
この辺、歴史としては個人的に整理できていないんだが……。


まあ、簡単に言うと左翼思想が流行ったからでしょうね。60年代、左翼思想は理想主義。理想主義は若者の特権だった。


逆に、「大人」は理想主義を大声で言うのはカッコ悪い、という感覚があるらしい。


別ルートでは、「青春」ってものの再発見があったはず。
「青春」概念がいつ頃、歴史的に発見されたのかはよく知らないけど、戦後は60年代前半あたりからなんじゃないかと思う。
舟木一夫のヒット曲「高校三年生」が、1963年。ドラマ「青春とはなんだ」が1965年かあ(原作は石原慎太郎か! 研究の価値ありだな)。


つまり、60年代前半にはティーンエイジャーを称揚する作品が出てきてヒットを飛ばすというのは、それだけ若者が消費者として育ってきたということなんだね。


それと音楽方面の思想もあるんだろう。「ビートルズ」とかその辺。この辺は私は門外漢でなんとも言えないが……。


で、この「左翼思想ルート」と「音楽ルート」と「青春ルート(たぶんどちらかというとシラカバ派的な)」が60年代から現在まで複雑にからみあいながら、ずっとある。


「オタク」が90年代半ばに、サブカルチャーにとってアンチテーゼとして意味があったすれば、それは上記の思想に必ずしも乗っていなかったから。それ以前に攻撃されていたのも、上記の思想と考え方がぶつかることがあったからだろうと思う。


オタクの話はまだ早い。ちょっと待って。


それでもって、たとえば学生運動に疲れた若者が「自分ももう大人にならなきゃな……」とか言って髪を切り、同棲していた女と別れ、あるいは結婚し就職していくというのは60年代、70年代には「ベタなドラマ」として普通にあった。それは「若さ」の特権化を信じていないとそもそも出てこない考えなんだよね。


対するに、ミステリとか、まあチェスでもクラシック音楽でもいいけど、そういうかつての「趣味」というのは、仕事を持ち、家族を持ち、経済的余裕のある人たちが洒落っ気をもってやること、というイメージがある。
(SFはちょっと違う。SFにはミステリと違って社会について考える理想主義的側面があるから。)


この辺の、考え方の交通整理が、まだできていないと思うんですよ。
あるいは、「若者派」と「大人派」が決定的に対立したくない(うやむやにしている方が商売になる)から、おたがいごまかしている側面もあると思う。


ここがごまかされている理由のひとつは、ここを突き詰めていくと「格差」の問題が露呈してしまうからなのではないか。
「趣味」というのは、たぶんかつては経済的に余裕のある金持ちだけのものだった。あるいは、金をかけないでやるものだった。


たとえば、オタクの笑い話によくある、「これこれを大人買いしたから一ヶ月、食うや食わずですごす」とか、そういうのは本当は「大人」のすることではないんだろう。趣味人における「大人」の条件には「経済的余裕」というのが含まれる気がするから。


「大人の、落ち着いた趣味」というものを追及していくと、「若者文化」の大半は脱落してしまう(「大人」の条件に「若者」が脱落するのは当然なのだが)。
しかし、このあたりがごちゃごちゃになっているのが現状だろう。


私個人としては、正直、どっちも話半分、信用しているところもあるし、していないところもある。
「大人派」は、広義のサブカルチャーにおいて、「子供文化だったものを大人が愛でる」という矛盾を本質的に抱えている。
これは、本当はものすっごい矛盾だと思う。しかし、それに気づいている人は少ないし、指摘されることも少ない。


「若者派」は、「大人になる方法」を思想的に持っていない。「いかに若くあり続けるか」みたいなことばかりが常に問題となる。


そうそう、それと、特異なセクシュアリティ(フィギュアを愛でるとか)ばかりが強調されたので「コドモっぽい」と思われているオタクだが、
ここはなかなか複雑で、
たとえば「電車男」において、なぜ電車男が女の子と付き合うのにあんなに苦労しないといけなかったのかというと、
「それはオタクと普通の女性とではメンタリティが違うからだ」ということだけで片付けられていたけど、そうではない。


オタクというのは基本的に「若年寄」の文化なので、恋愛に関するスキルなどの方法論がまったく入っていないからである。
逆に言えば、本来酸いも甘いもかみ分けた人が享受するべき文化を、若者が担おうとするところに「電車男」的な狭義のオタクにとっての不幸があるように思う。


「ゲームやフィギュアの女の子が好きだから生身の子とつきあわない」のではなく、そもそも文化の中に「生身の子とつきあう」という思想と方法論がパッケージングされていないからそうなっているのではないか、と、ふっと思うんですけどね。


マスコミやネットには、筋金入りの「現実の女性に興味ありません」っていうような発言しか出てこないけど、
この辺はこっそり「転向」した人の話を聞くと面白いと思いますよ。


そういう意味では、最近はすべての思想が「断片」になってしまっていて統合されることがない。
まあ「統合されなければならない」って考えること自体が、おっさんである私のとらわれであって、もうみんなそんなの関係なく楽しくやっているのかもしれないけどね。