「こじきのくせに」で炎上

スパルタ教育に引き続いてはこっちですか(知りたい人は調べてください)。


こういうとき、必ず批判者(炎上させる側)とその原因をつくった発言者、どちらかに比重を置いた感想になりがち。


でも、両者の問題は別々であると、自分は思う。
この「両者の問題は別々である」ということが把握できていないと、どちらを批判しても意味は半減する。
(自分がよっぽど強い主張を持っていれば別だけど。絶対的な正義とか、あるいはネットで何をやってもいいというアナーキズムとか。)


だから、このエントリでは、「炎上させる、騒ぐ側」ではなく、その原因をつくったテキストについて書く、ということを強調しておく。


前後のつながりがまったく見えないので(もう消えちゃってるでしょ? ブログ)、断定的なことは言えないのだけれど、


「毒舌の低レベル化」というのを、すごく感じる。
もう、ネット社会になってだれでも書けてだれも見れるようになると、それは仕方ないもかもしれないけどね。


私はビートたけし直撃世代。で、たけし以前にも毒舌のタレントや文筆家はいただろうけど、とりあえず「大衆化した毒舌」のオリジネーターとしてたけしを基点とする。
(なぜなら、たけしの大ブレイクに、たけしの上の世代のタレント、文筆家ですら「毒舌」の効果と影響力を考え直したのではないかと思うし、「毒舌のエンターテインメント化」に最も貢献したのはここ30年間くらいではたけしがいちばんだからである。もちろん、たけしより下の世代のお笑いタレントも全員、たけしの手のひらの上にいる。)


で、そこからずいぶん遠くに来てしまったなあ、と。


そもそも、「たけしとその時代」によって毒舌の価値は大転換してしまった。もちろんそれ以前にもあったが、日本のお笑いにかぎってはメジャーなものではなかった気がする。だってそれ以前は欽ちゃんが全盛だもん(コント55号はサディスティックな笑いだったけど、毒舌というのとは違う)。あと、70年代にはだれがいたっけ???
毒蝮三太夫三遊亭円歌……くらいしか思い浮かばないな。談志がテレビで毒を吐いていたかどうか、私は知らないし。もう70年代半ばにはテレビに出なくなっていたはずだし。
関西にはたくさんいたかもしれないけど、70年代に全国ネットで見られた関西のお笑いって今よりずっと少なかったし……。


それでまあ、スパルタ教育にしろ、かの女子大生にしろ、本人たちは意識するにしろしないにしろ、「たけし全盛」からの延長線上にあるわけですよ。
でも最近感じるのは、21世紀入ってからくらいから、ちょっとおかしくなってるよね、と。


ネット上の、なんてカテゴライズすればいいのか、2ちゃんねる的、オタク的、サブカル的な言説が、毒舌で自家中毒を起こしている。


そして、それとはまったく別のコミュニティの人たちが、それにひたすらに怒りまくる。


正確に言えば、毒舌を含めた「2ちゃんねる的正義感」という(自分にとっては)摩訶不思議なものがあり、
それに何も知らない人が乗っかって「大炎上」を形成しているという印象がある。


冗談と正論が錯綜していて、それでいって決してまじわることがない、というかなり悲惨な状況であると感じる。


たとえば「ゴーマニズム宣言」は、諧謔から始まって正論に到達しようとした、正確に言えばそのプロセスを楽しませようとあがいている作品だと思う。
しかし、それは決して正論にはなりえないだろう、たぶん。


かといって、言説による「正論」はなかなか通りにくい。常に複雑な思考プロセスを必要とするから、ついてこようとする人も少ない。


現在、本をあまり読まずネットばかりやっている人の中には、「毒舌入った正論っぽい言説」をそのまま「正論」だと受け取っている人と、
冗談がまったく通じず、ただひたすら「毒にも薬にもならない言っても仕方がないレベルの正論」を信じている人がいるんじゃないかと思う。


どこかで交通整理がされなければならないが、きっと儲からない。だからだれもやらない。


(そういえば、やってることはやってるけど「時事ネタをいじる」ことの最前線からたけしはとうの昔に撤退してしまっているし、時代をみこしたわけじゃないだろうけどそれは正解だったんだろう。
逆に、今それをやり続けているのが爆笑問題浅草キッドなんだろうな。彼らは戦っているよなー。)