オタクとサブカルと

オタクとサブカルと砂上の賃貸

当ブログの「オタクとサブカルの違い」が3月22日に書いたテキストだったんスが、上記は1月27日でウチより若干早い。このテキストの存在に気づくのが遅れました。

サブカルの語源はサブカルチャーに起因するが、昨今使われている「サブカル」は広義のサブカルチャーとは異なり、70年代から80年代にかけて一部の若者の間で流行った「宝島」「ビックリハウス」等の文化を起源としつつも、90年代以降になってからその中のおしゃれな部分を抽出してブランド化・権威化したものを指す。また、ニューアカからのインテリ・スノッブな流れも強い。

一部を引用させてもらいました。
ああなるほど、問題は90年代以降なんだなと再認識。
ひとつ断り書きをしておくと、私はオタクVSサブカルにたとえば「凶悪な少年犯罪に対する刑罰を懲罰として厳しくする/更正をうながす方向に持っていく」というような、切実で深刻で論理的な対立があるというふうには当然とらえていなくて、雰囲気として考えてる。


まあ、そんなこと当然だと思っている人が多いと思うけど老婆心ながら書いておきます。


で、現在はオタク/サブカルの対立というのはありやなしや、というと、コレも重層的になっていてあるとも言えるしないとも言える。世代間の差もあるだろうし。
あるいは、そういう曖昧な関係が今日的とも言える。


ただ、若い衆のブログを覗いていると、サブカル勢の旗色は悪い、ように感じる。
私個人の感覚としては、90年代以降、「おしゃれ部分を抽出した」というよりも、前にも書いたが「ソレを支える『魂』みたいなものが消失してしまった」と考えている。
だから、オタクかサブカルかという二者択一で行くならサブカルに入る人でも、自分の立ち位置をしっかり持っている人は生き残っている。
ま、それ以上のことはわからんけどね。そんなにサブカルかぶれ(鳩サブレみたい。そうじゃない?)みたいな人が周囲にいないから、わかんないのだ。


しかし、本当に若い衆の意見を見ていると、明らかに90年代初頭あたりまでと価値観が逆転しているように感じる。
これもわざわざ断っておくが、何にも変わらない人だっている。文化的なことを語るときは、どうしてもそれを取り巻く人々の有形無形のコミュニティをイメージえざるを得ない。
何度か書いているが「教養」というのはどうあがいても閉鎖的なものなのだ。


で、「そういうのが好きな若い衆」の基準を見ているということを前提にして書くが、少なくとも90年代初頭まで、15年間は引っ張ってこられていた価値基準が明らかに逆転してきているなあと。


たとえば今の若い衆は、小劇団系の役者とかがテレビドラマとか映画に出ると、けっこう突き放した目で見ない?
私はいわゆるひとつの「第三舞台」とか「健康」とか「キャラメルボックス」とかですね、ああいった小劇団関係には暗いんだけど、ああいうところで活躍している人が普通のテレビドラマに出てくるのが時代の風穴、みたいに思われていた時期が確実にあったんだよ。


それが薄れはじめたのが、「どの日本映画にも竹中直人が変な脇役で出ている」というパターンが確立してしまった頃からで、今後、もしかしたらその役割は古田新太阿部サダヲになっていくのかもしれない。


現在、ああいう小劇団系のシーンっていうのももともとわからないうえに知らないんだけども、やっぱり80年代後半くらいは勢いが感じられて、まったくそういう表舞台に立つような知り合いが身近にいない私の周囲でも、劇団を始めたり舞台に立ったりした人がいたくらい。それはやっぱり勢いだったね。


芝居界の業界事情は知らないが、ひとつの区切りになったのはこれも前に書いたけど「ダウンタウンのごっつええ感じ」であまりにも小劇団系の笑いを消化したコントをやった、ということだと思う。
まあ、大きかったと思っているのは私だけかも知れないが。
しかし、あそこまで取り入れられると「笑い」という観点のオリジナリティをテレビに奪われた感じで、あの番組を体験している世代は「小劇団のいかにも的笑い」みたいのに慣れちゃっているというのはあると思う。


今、クドカンとか松尾スズキがややメジャーっぽいことをしてるんで、後続であの路線を目指している人たちはちょっと辛いだろうな、とは思う。