趣味の「量」問題

えーと、どこかの掲示板で目にして、別にバトルになってるとかそこの発端となる書き込みに強い異議があるというわけでもないんだけど、メモ的に書いておく。


趣味(読書とか音楽鑑賞など)で、どのくらいの量をおさえるべきかというのは、繰り返し議論になる。
オタク界では昨今、摂取量の少ない人のことを「薄い」と称したりするわけだけど、
「オタク」とか「マニア」に限らず、もっと裾野を広くすると、この「量」の問題というのが必ず出てくる。


で、なぜ「量」を問題にするかというと、その「『量』を問題にする」ということが趣味に対する一種の「思想」とつながっているからだ。


ちょっとややこしいが、要するに「量」を問題にするというそのことこそが、「量」そのものとは離れて「趣味」に対する思考のきっかけにならなければならない(と、私は思っている)。


「コレコレを読んでないとマニアとは言えない」とか「コレコレを観ないうちにアレアレについてとやかく言ってもらいたくない」というのは、マニアが口にすることで、私もそう思うときや思われるときがあるわけだが、
当然だがそれはあくまでも、心の深いところでは「あくまでもそういうことが最重要であるかのようにふるまう」ことが楽しいからしているのである。
そういう意味では趣味の世界というのは一種の仮面舞踏会的なところがあり、


だからこそ、オタク仲間でどこに住んでいて仕事は何か、なんてことがわからないやつがいるということも起こりうる。


で、そういう趣味における「量」とか「質」の問題は、そこに「趣味とは何か?」という根本的な問いが含まれていなければ意味がない、と個人的には考えている。
そうでない状態で、「量」があくまでも根元的な問題だと規定し、さらにとげとげしたやりとりを繰り返すなどというのは愚の骨頂である(「それが楽しい状態」なら、ぜんぜんかまわないけど)。


それでもって、なぜか趣味の問題というのは「モテ/非モテ」だとか、ニートだとかの問題につながりやすいが、コレは「趣味」の問題が基本的に生活の根本部分に根ざしていないから、それを「道」として突き詰めていくと「下部構造は上部構造を規定する」という意味の下部構造(っていうか本来の意味とは違うかもしんないけど)」というか、生活のインフラの部分に話が行って当然なのでそうなるのであるが、それはまた別の話。


ここまで書いてきて何が言いたいかというと、まあ最初の言い出しっぺの人はあくまでも「『量』が重要である」というふうにふるまうことによって、そういう仮構のうえに楽しい議論をしようとするのだけど、
どうしても後にはあたかもそれが人生のすべてであるかのように感じてしまう人が出てくるということだよね。


そうなってくると「本気度」のレベルがいちじるしく違ってきてしまうから、話がかみ合わなくなってしまう。


すべて、趣味に関する議論というのはあくまでも「それがあたかも重要なことであるかのようにふるまう」ところから出発していることをみきわめないと、「楽しくない量の競い合い」になってしまってものすごい不毛な議論展開になってしまう。


まあそういったことをふまえた上での「量」の問題なんだけど、
私は基本的に趣味における「量」って、大食い大会の「大食い」と同じものだと思っています。


資質も必要だし、そのうえで「大食い」という一般的には無意味なことにどれだけ賭けられるか、ということになっていくと思う。


それと最近気づいたのは、こうした「量の問題」を「いなす」方法というのがあって(笑)、
それはまったく悪びれずに、
「あ、それ嫌いだから読んでない(観てない、聞いてないでも可)」
とカマした後に、自分の得意分野に無理矢理持っていくということですね。


いや、私自身はそういうことはやりたくないんだけど、
意外にこういう人、多いです。
そのジャンルの「大系」の中で重要な部分でさえ、何のエクスキューズもなしに、本当に悪びれない人がいて、内心「ええーっ」とか思うけど、


でも一方で、「そうでもしなければマニアなんてやっていけないだろう」とも思う。
だれもが荒俣宏になれるわけじゃないんだから。


また、若い人の中で「量」が競われる場合、
返す刀で「一般人」に対するルサンチマンがあからさま、という場合もあるんだけど、


あれもカッコ悪いよなあ。
ロートルのオタクはもう後戻りできないから私も許すところは多いが、
若い衆の場合、
「なんでこっちが遠慮しないといけねェんだよ」
と思わないこともない。
むろん、ルサンチマンを原動力にいい仕事ができたりする場合もあるだろうが、


若いうちから薄い人をいじめて喜ぶ(あるいは逆にいじめられて極度に恨む)のは、カッコ悪いと思います。
いじめ、カッコ悪いです。