モエモエ談義

このシンポジウムは、会場の参加者が携帯電話を利用して投票できるシステムが設けられており、早速その設問が登場。高橋留美子氏の代表作のひとつで、少年誌系では学園ラブコメの元祖といえる『うる星やつら』についての投票が行われた。同作品は、「萌えか否か」ということである。(中略)

投票の結果は、7対3で「萌えではない」という結果に。パネラーの方々の多くは、年代的に今の若い人たち(「萌え」の中心世代の1980年前後に生まれた人たち)がどう捕らえているかわからない微妙な作品だった模様。太田氏は、この結果に対して「納得できる結果だけど、意外な反面もある」とのことであった。その後、年代ごとの代表的なマンガがプロジェクタースクリーンに映され、検討。『うる星やつら』と同じ'80年代の代表作『タッチ』も「萌え」ではない。が、'90年代の『美少女戦士セーラームーン』と『カードキャプターさくら』になると、もう完全に「萌え」の範疇。特に後者はストライクど真ん中だろうという話である。が、さらに'00年代に入って『もえがく』や『デ・ジ・キャラット』になると、行きすぎていて、ついて行けない人が出てきているという具合である。

20年後のコンテンツビジネスでは“萌え”が当たり前のものに?! -萌えてはいけない。(前編)

クリエーターはビジネスマンの食い物にされるな! -萌えてはいけない。(後編)


見に行ってないです。「うる星やつらは萌えか否か」をモバイル投票した、というので興味を持った。
そうしたら、他の当日のレポなどを読むとこれは主催者側の企画だったらしい。
なぜ私が興味を持ったかというと、いまだに美少女ものと「萌え」の区別がつかないからである。
「萌え」にこだわりのある人とつっこんだ話をしたことはないが、ちょっと聞いてみると「『萌え』って80年代の美少女ものとは違うんですよ。わかんないかなァ〜」みたいな態度をとられることが多かった。


本気で(いろんな意味で)絶望した。


そもそもが昔(20年以上前)は「萌え」って言われているものは「美少女」とか「ロリコン」とか、もっとおおざっぱに言えば「アニメっぽい」とか言っていた。
70年代までのエロ劇画とは一線を画したかたちで「アニメ絵」というのが出てきた。
それは、アニメにおいてアニメゆえの手法(爆発のかたちであるとか、ポージングであるとか、肌影の付け方であるとか)があり、それは当然アニメだから「動かすため」とかたぶん「セルの枚数の少なさをごまかすため」に編み出された技法だったのが、その「何となくのカッコよさ」からマンガに転用された手法を含めた絵のことである。


それは、言うなれば「大きな西洋館」が「本当にそういうところで暮らしていた」から海外ミステリに適用されていたのが、「何となくカッコいいから」と国内ミステリで「館もの」と言われるくらいに「館」そのものに意味が生じるとか、
レコードからCDに移行するときに、レコードへの愛着からわざわざA面とB面の切り替わりのところでステレオ内でレコードがひっくり返る音を入れてみたりとかいった、


他ジャンルに対する憧れから必然性なく、移行してきた手法だった。
だから、「アニメっぽい」というのは技法だけではなく、選択される題材……SF仕立てであるとかミリタリーであるとか、そういうことも含まれていた。
そして、やっと美少女の話になるが興味深いのはそこに「アニメ的美少女の描き方」が多く転用されたことで、
それはマンガ絵の中に「セクシャルな女の子」を出す技法が整っていなかったというだけではない、
抜きがたい魅力があったことは否定できないであろう。


そういう意味では「うる星やつら」はものすごく微妙な作品で、
「うる星」当時の高橋留美子の絵はアニメ絵的ではなく、
ラムちゃんロリコン的ですらなかった。


ところがアニメ化されると、「色っぽいおねーさん」的な要素は影を潜め、丸顔のかわいらしい感じになった。
そして「うる星」をやっていた(確か)森山ゆうじは「アニメ絵」を描く筆頭でもあり、
私の同時代的な感覚としては、
「うる星」という作品は、マンガ単体としての新しさ、ギャグとしての面白さとは別にセクシャルな部分も持っていたのだが、それは多少同時代の「エロコメ」と言われていたようなものとリンクしたものであり、
それと同時に、後の「美少女もの」を好むファンにも強く支持され、
さらにアニメ化に至って「いわゆるアニメっぽい美少女もの」としてカスタマイズされたという印象がある(アニメも、それそのものとして面白かったと思うけど)。


こうして書くと実に混沌としているように感じるが、
簡単に言えばそれまでの「かわいい女の子、色っぽい女の子」のヴァリエーションが「個々の作家の描き方」にのっとっていた、せいぜい手塚、石森くらいしか「お手本」がなかったのに対し、


あー違うな、それ以外にも「色っぽい『女』」を描くマンガ家はたくさんいて、
モンキー・パンチとか、笠間しろうとかがバタくさい感じの女性を描いていたし、あと作家名が思い浮かばないが望月三起也も女性を描くときの参考はプレイメイトとかひと昔前のピンナップガールかなんかだったと思う。


……で、まあそれくらいしか『お手本』がなかったのに対し、
80年代にいのまたむつみとか森山ゆうじとか土器手司とか美木本晴彦とか平野俊弘(俊貴)とか、マンガ家だとゆうきまさみとかがいて、
それらをみんがみんなマネしたのでみんな同じような顔になり、オリジネイターたちはともかく、
『アニメ絵』とか『アニメ顔』とか言われてバカにされたのである。


(『バスタード!』で『イーノ・マータ』という神の名を唱えるシーンがあるが、あれはいのまたむつみだろう。萩原一至の絵柄から言っても。)


だから何が言いたいかというと、
現在起こっている「萌え」にまつわる論争は、当時起こっていてもおかしくなかった、
いや当時は議論も何も、
支持する者と忌避する者がまっぷたつに分かれていたのであって、
「萌え」談義のときに、なんであの時代から話が進まないのだろう? ということを常々疑問に思っているからなのだった。


しかもだ、「萌え」を特別なものとして語るのは現在年齢的には上は三十代半ばくらいまでだろう。要するに『明らかに先行世代とは違う志向である』ということが「萌え」を強調する理由であると思われるが、
そのわりにはいのまたむつみあたりからの絵柄、技法との違いを決定的にわからせてくれる論者というのを知らない。


「萌え」談義が泥沼化する理由のひとつに、『萌え/萌えじゃない』というのがハッキリしないというのがあると思う。
それはどう考えても、70年代終わりあたりからの『アニメ絵』の中での細かな違いに議論が終始しているからで、
そりゃあ話題性と言えば現状「萌え」と言われる作品の分析が求められているんだろうが、
劇的に変わった70年代終わりあたりから論じなければお話にならないのじゃないか、と思う。


でも、いくらこのように唱えても同意されたこともないし、だれかがやってくれそうもないので本当に虚しくなってきた。


今回のパネラーの人たちがそうとう優秀なのはわかっているが、
やはりひと言コメントをもらいたいのは、70年代終わりにアニメっぽいマンガを描いていた人たち、あるいは80年代に美少女エロマンガを描いてきた人たち。この人たちが「萌え」をどう思っているかだろう。
ちなみに、私はベテランエロマンガ家のHPなどをたまに観るが、実に普通に「萌え」という言葉が使われている場合が多い。
だとすると、その人たちの中ではおそらく、自分たちが先行世代に嫌われていたとか違和感をもたれていたということはわかっていつつ、後続の「萌え」には違和感を持っていないということなわけで、それはすなわち感覚的には70年代後半から「萌え」が地続きに存在しているということなのではないかと思う。


たとえば『エヴァンゲリオン』の貞本義行の絵は、80年代的な感覚からするとこれ以上ないくらいの『アニメ絵』であって、
当時から10年前ならその絵柄だけでサブカル方面からは忌避されていたような作品である。
しかし95〜96年の段階で『絵柄がダメ』という批判はまったくなかったと思う。


それはなぜか? というと、この段階で貞本的な絵柄がすでに浸透と拡散していたということである。
(それ以前に、『王立宇宙軍』当時は貞本はいわゆる『アニメ絵ではなかった』とか、その辺だっていろいろと興味深い話が出てくるはず。)


アニメオタクではない人たちで、『エヴァ』にハマった文化人とかに苛つくのは、あれって綾波というキャラクターの新しさより、あの絵柄とか雰囲気全体の『いわゆるアニメっぽさ』が重要だったと思うんですよ。
いやガイナックスだから洗練されてはいたけどね。


しかし『アニメ絵』って日本のマンガ史的にいってもあまりにデカすぎるパラダイムシフトだったと思うんだけど。
それ語らずして、「萌え」とか言ってもしょうがないと思う。感覚的に『萌えだ』、『萌えじゃない』って言っても仕方ない。そりゃ昔のポルノ映画で出てくる女がビッチリつけまつげしてたりすると萎えるのと同じことだから。


たぶんパネラーの人たちはみんな思いきり語れるんだろうけど、現状で「萌え」をトピックとして扱うと、一般的に交通整理ができてなさすぎてそこまで話がなかなか行かないんだろうね。と思いました。


あとレポとして、以下のところに私の知りたいことがくわしく書かれていたので参考にさせていただきました。
「萌えてはいけない。」に行ってきました。

続「萌えてはいけない。」に行ってきました。